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Abendの憂我な部屋

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2012年 06月 30日

☆ 私の愛聴盤 モーツァルト / 交響曲第40番

 弦楽五重奏曲第4番、交響曲第25番、そしてこの40番はト短調である。調性によって聴き手の感情が変わるといわれるが、それとて聴き手が生活している社会、時代の状況によって異なるのではないか。

 かなり以前、明治初期に40番を聴いた上流階級の婦人が、「まあ、こわい。まるで戦争のような」という感想を述べたエピソードを読んだことがある。おそらく、当時の日本人には、彼の第1楽章の主題も疾走する怒涛の如く聴かれたのだろう。現代日本人の我々のように、悲哀の情を生起させるものではなかったのだろう。

 sawyer様が小林秀雄の『モオツァルト』の一節を挙げておられるのを見て、中学時代にこれを読み、何のことやらさっぱり解らなかったことを想い出した。文庫本が書棚の奥の方にあるはずだが、もう何十年も読んでいない。だが、今なら彼が40番に万葉人の「かなし」をイメージしたに疑問を持つことができる。

 世の中は むなしきものと 知る時し いよよますます かなしかりけり (『万葉集』巻五。大伴旅人)

 妻や友人を相次いで亡くした時に旅人が詠んだものとされているが、「かなし」の連用形である「かなしかり」が当たり前のように「悲しい」と理解されているのには合点がいかない。私の知る限り、「かなし」が悲哀の表現として使われるようになったのは、佛教による無常感が知識階級にある程度定着してからのことであり、万葉時代には「愛しい」の意味で使われていることが多い。故に、旅人の歌も、愛する人々の死によって世のはかなさを知り、それが亡き人々への愛しさを増幅させると解すべきではないか。

 小林秀雄は、『モオツァルト』より3年前の1943年に『無常といふ事』を書いている。彼が40番に感じたモーツァルトの悲哀は、『無常といふ事』の冒頭に引用された『一言芳談抄』に登場する「なま女房」の心、すなわち苦に充ちた現世のことはどうでもいいから、どうか後の世で救いたまえと祈る悲哀であり、小林秀雄はこれを万葉人の「かなし」に投影したというのが、私の考えである。そして、そういう彼の40番に対する印象批評が、日本の音楽評論家、そして愛好家に定着してしまったのではないだろうか。

 無常感に裏打ちされた悲哀の情で40番を聴くことから解放してくれたのが、アーノンクール/コンセルトヘボウ盤。1983年の録音。発売されて間もない頃に買った、一枚3.800円時代のCDである。
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 40番を聴く頻度は少なくなったが、いつ聴いても衝撃的な演奏だ。モダン・オケにピリオド奏法を持ち込んだなどといわれるが、そんなことはどうでもいい。今のピリオド楽器による演奏には、「小林秀雄の亡霊」を覆すような衝撃性はない。アーノンクール盤は、「まあ、こわい。まるで戦争のような」と感じた明治の婦人の亡霊にむしろ憑依されるような演奏なのだ。

 小林秀雄論の逸品である坂口安吾の『教祖の文学』にこうある。

 「時代は変る、無限に変る。日本の今日の如きはカイビャク以来の大変りだ。別に大変りをしなくとも、時代は常に変るもので、あらゆる時代に、その時代にだけしか生きられない人間といふものがをり、そして人間といふものは小林の如くに奥義に達して悟りをひらいてはをらぬもので、専一に生きることに浮身をやつしてゐるものだ」
 
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 カラヤン/VPO盤もいい。sawyer様が挙げておられるので再掲は省くが、ワルター/VPO盤と同じぐらいにいい。カラヤンはVPOを規律正しく統率し、ワルターはVPOを使って、本質的には硬派である自分を唸り声もたくましく表現している。こういう違いはあっても、VPOの音には安心できるものがある。


 
 


 

 

by Abend5522 | 2012-06-30 17:22 | クラシック音楽
2012年 06月 25日

☆ 私の愛聴盤 モーツァルト / 交響曲第39番

 何度聴いても、第1楽章の序奏がJ.S.バッハの管弦楽組曲第3番の序曲と感じが似ている。つまり、フランス風序曲の形になっているということだ。オーボエを欠く楽器編成とともに、この作品の謎である。

 ハイドンの交響曲第104番『ロンドン』の序奏も壮大なファンファーレといった趣だが、39番の方が先に作曲されている。ハイドンの交響曲は『ロンドン』で終わってしまったが、モーツァルトは序奏を必要としない40番と41番『ジュピター』、そして39番をわずか3ヶ月足らずの間に作曲したというのは、驚きのほかはない。また、彼は39番を遂に聴くことなく世を去ったというから、作曲者自身も聴けなかった作品を幾種もの演奏で聴ける我々は、かかる状況下に生きていることに感謝せねばなるまい。
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 スイトナー/SKB盤。LP時代には、発売されるごとに買い揃えて行った長い付き合いの一枚である。提示部をリピートせず、一気呵成に仕上げるザッハリッヒなアプローチだ。オペラ公演やコンサートも含めて、スイトナーの演奏で様々な作曲家の作品を聴いたが、モーツァルト以外で素晴らしいと思ったのはLGOとのハイドン/交響曲第100番『軍隊』と、SKDとのストラヴィンスキー/『春の祭典』、同じくSKDとのビゼー&ウェーバーの交響曲第1番だけだ。
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 もう1枚は、マリナー/ASMF盤。強弱の幅を強調した演奏で、マリナー流のリリシズムが39番には似合う。テンポを動かして表現するタイプの指揮者ではないので、あっさり流しているような印象を受けるかも知れないが、百戦錬磨の手兵たるASMFの実力がよく発揮されていえ、何度でも聴きたくなる演奏だ。

 39番を初めて聴いたのは、ワルター/コロンビアSO盤。但し、その第3楽章である。LP時代にソニーの「音のカタログ」というのがあって、有名曲のサワリが収録されている中にワルター盤の第3楽章があった。高弦を「ヒュン」と伸ばすような表現に感動したが、今CDで聴くとコロンビアSOの生々しい音色の方が耳について、あの時のように感動しない。

 今は持っていないCDで無性に聴きたいのが、バーンスタイン/VPO盤。「ベートーヴェンのような演奏」という非難もあるが、少なくとも第1楽章の序奏は凄い。近々再入手したい。

 硬質な演奏では、デイヴィス/SKD盤が堂々たるものだが、遅めのテンポが今の私には合わない。これは、サヴァリッシュ/チェコPOの柔らかい演奏にもいえることだ。これらとは逆に、マッケラス/スコティッシュ室内O盤は、溌剌とした演奏で好感が持てる。惜しいのはヴァンデルノート/パリ音楽院O盤で、モノラルとはいえ音質が悪すぎる。

 sawyer様のお導きにより、マーク盤も持つことが出来た。独自なパウゼの入れ方が魅力的だ。テンポの揺らし方にも、何か彼の「悟り」を感じる。他では聴けない演奏だ。もっともっと聴き込みが必要だ。

by Abend5522 | 2012-06-25 01:27 | クラシック音楽
2012年 06月 16日

☆ 私の愛聴盤 ブラームス / 交響曲第4番

 初めて行ったコンサートのメインが4番だった。渡邊暁雄/京響の定演。その後、バルビローリ/VPOの甘美な演奏や、ザンデルリンク/ドレスデン国立Oのガッシリしたそれに親しんでいたが、不思議なのはいつも第4楽章だった。ベートーヴェンの3番や9番とともに、なぜ付いているのかが今もしっくり来ない。

 第4楽章のパッサカリアは、その主題がJ.S.バッハのカンタータBWV150『主よ、我は御身を仰望す』の終曲に因んでいるという。

 BWV150はJ.S.バッハ初期のカンタータだが、終曲を聴いてもどこをブラームスが用いたのかよくわからない。
ただ、J.S.バッハの時代には既に古めかしいものであったパッサカリア形式を、ブラームスがなぜ用いたことの不思議は、4番における定番の話題である。当時の反ブラームス陣営からはアナクロの極みとして批判されたのだろうが、現代日本の一愛好者としてはその不思議を聴くのみである。
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 コンヴィチュニー/SKBのライヴ盤。これを初めて聴いた時には驚いた。第1楽章第一主題の弦の"泣き”にである。バルビローリ盤は冒頭のバルビ節で人気があるが、それを遥かに凌駕するコンヴィ節だ。彼に被せられたイメージを覆すものといってよい。

 冒頭からしばらくは、弦が揃わないことしばしばだ。1960年の比較的聴きやすい録音が、却ってそれを際立たせてしまう。だが、これは「失敗」なのか。そうは思わない。オケは何か戸惑いつつ始めたのかも知れないが、それが堂々たる演奏へと発展し、万雷の拍手が聴衆にもたらした感動を物語っている。"泣き"のコンヴィ節あればこそのそれだったのではないか。コンヴィチュニー好きの我田引水と思われても構わない。第1楽章第一主題のメロディーを喜怒哀楽に当てれば、「哀」しか考えられないのだから。
 
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 他方は、またぞろリンデンベルク/北西ドイツPOにご登場願おう。YouTubeにアップされているものは音量が小さく、低音がダブついていて聴きやすいとはいえないが、お聴きいただいて「Abendはなぜこんな演奏が好きなのか」へのご意見をいただければ幸いである。なお、これをアップされた方はかなり年季の入った愛好家らしく、実に多くの演奏を挙げておられる。リンデンベルクの演奏を挙げておられるだけでも、コアな方と推察する。3番の終楽章もアップしておられるので、これも付けておきたい。


 ブラームスにおいても、sawyer様、HABABI様のブログから大いに学ばせていただいた。善き先達との出会いに、改めて感謝申し上げる次第である。そこで次のお題であるが、モーツァルトの後期三大交響曲をご両兄に提案させていただきたい。ご首肯いただければ幸いである。

by Abend5522 | 2012-06-16 17:16 | クラシック音楽
2012年 06月 16日

誕生日

 6月15日が誕生日だった。弘法大師やグリーグと同じだ(弘法大師の誕生日は伝承に拠る)。

 星座がGeminiなので、EPレコード以来の愛聴曲である川島なお美の『Gemini』(1983年)を聴いた。

 「ライトのシャワー キラキラDreamin'」の部分がユニット・バスのCMに使われていたのが気に入ってEPを買った。20代前半の私。

 弘法大師は、24歳で佛教、儒教、道教の比較論である『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著した。グリーグは、22歳でヴァイオリン・ソナタ第1番を作曲した。それぞれの20代前半があったのだ。

 シグナルの『20歳のめぐり逢い』と、風の『22歳の別れ』。


 全く別の曲なのに、続けて聴くことが多い。偶然にして、両曲とも1975年に発売された各々のデビュー・シングルである。幸か不幸か、私には20歳でめぐり逢って22歳で別れた恋人はいないが、2曲とも胸に沁みるものがある。『20歳のめぐり逢い』はバロック調の弦楽合奏による間奏部、『22歳の別れ』はギターのハーモニックスが効果的だ。

 より身近な曲では、タンポポの『嵯峨野さやさや』も1975年にリリースされている。

 嵯峨野を歌えば次はという感じで、1977年には長渕剛のデビュー・シングル『雨の嵐山』がリリースされた。

 齢を加えるに従い、現在の感覚で記憶を塗り替えた若き日の自分と対峙する時、当時の苦も愚も輝けるものになるのかも知れない。そんな思いとともに、Kyoto Jazz Massiveの『The Brightness Of These Days』を最後に。

 

 

by Abend5522 | 2012-06-16 01:38 | クラシック以外の音楽
2012年 06月 14日

「雪やこんこ」その2

 「こんこ」は「来む来む」の省略形として成立するのだろうか。

 「来む」を「来」と略すことはある。京阪神などでは、「行って来よう」を「行って来」という。「来よう」は「来む」の「む」を意志の助動詞として使った例である。だが、「来む来む」のような動詞+助動詞の反復強調における例は知らない。「あかんあかん」は「あかんあか」とはならず、「さあ、やろうやろう」は「さあ、やろうやろ」には変化しない。

 「来む此」という説もあるそうだ。これだと「雪よ、降ろう、ここに」となる。一見成り立ちそうだが、倒置法を使って「ここに」という場所の限定をする意味がわからない。そして、「来む来む」だろうが「来む此」だろうが成り立たない大きな理由が。

 第十八 雪やこんこん (東クメ 作詞 滝廉太郎 作曲)
  雪やこんこん、   あられやこんこん。
  もっとふれふれ、  とけずにつもれ。
  つもった雪で、   だるまや燈籠。
  こしらへましょー、 お姉様。
 http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/yochien/yochien.html

 その1でも挙げた、『雪』より10年前に作られた『幼稚園唱歌集』にある『雪やこんこん』である。上記ではmidiで聴ける。
 『雪やこんこん』と『雪』の歌詞の次の部分に注目していただきたい。
 
 「もっとふれふれ」   「降つては降つては」

 両者は、それに先立って雪が本降りになっていないと成り立たない表現という点で共通しているのである。故に、「こんこん」であろうが「こんこ」であろうが、雪が降りそうな、あるいは降りかけた状況でしか成り立たない「来む来む」や「来む此」ではないのである。すなわち、両者の歌詞の2句目が、「こんこん」、「こんこ」のベースは「来む」でないことを示していることになる。

 では、「こんこん」や「こんこ」とは何か。これはすぐにわかる。雪が本降りになっていることを表す擬態語であり、正確にいうと、「こんこん」は擬態語「こん」の反復強調、「こんこ」は擬態語「こん」+「こ」である。

 擬態語「こん」とは何か。そして、「こん」に付く「こ」とは何か。それは次回で。

 

by Abend5522 | 2012-06-14 23:14 | クラシック以外の音楽
2012年 06月 12日

「雪やこんこ」その1

 sawyer様のブログに示唆を受け、唱歌『雪』と『夕焼小焼』の歌詞冒頭についての私見を述べたい。

 『雪』は作詞者、作曲者とも不詳となっている。1番の歌詞は次のとおり。

 雪やこんこ 霰やこんこ
 降つては降つては ずんずん積る
 山も野原も 綿帽子かぶり
 枯木残らず 花が咲く

 よく問題にされるのは、「こんこ」の意味である。「こんこん」の省略形、「来む来む」の撥音便という説が有力のようだ。

 瀧廉太郎の曲に『雪やこんこん』がある。作詞は東くめ。「雪やこんこん あられやこんこん」で始まる。次のブログで聴くことができる。

 http://rentaro.blog.so-net.ne.jp/2010-09-17

 1901年7月に出版された、幼稚園唱歌の第18曲となっている。一方、『雪』は1911年の尋常小学唱歌が初出である。2年生用の第17曲にある。資料は次にある。

 http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/jinjo1/jinjo1.html#217

 初出において「こんこ」となっている。国定教科書として編纂されたものであるから、「こんこん」が「こんこ」と過たれたとは考えにくい。そして、それ以前に「こんこ」を「こん」の反復強調とすること自体が疑問である。

 「こん」を「来む」とする説では、「来む」を「(降って)来い」という命令形としている。しかし、これは次の点でおかしい。
 1 助動詞「む(ん)」に命令という文法的意味はない。推量(~だろう)、意志(~よう)、仮定・婉曲(~とすれば   ば。~ような)、適当・勧誘(~のがよい。~よう。~ないか)。反語(~だろうか。いや~ない)が、主な文法    的意味である。
 2 直前の助詞「や」との関係。助詞「や」は、係助詞、終助詞、間投助詞のいずれかである。
   (1) 係助詞ならば、助動詞「む」との間に係り結びが成立し、疑問もしくは反語となる。しかし、疑問ならば      「雪が降るだろうか」となり、「降つては降つてはずんずん積る」につながらない。また、反語ならば「雪       が降るだろうか。いや、降らない」になってしまい、降雪を否定することになってしまう。
   (2) 終助詞でも、「や」の場合の用法は係助詞と同じく疑問もしくは反語であるから成り立たない。
   (3) 間投助詞としての「や」には、感動・詠嘆(~だなあ)、呼びかけ(~よ)、並列(~やら~やら)の三用法        がある。歌詞には「雪」、「霰」が別個に出てくるので並列ではない。

 この時点でいえることは、助動詞「む」の文法的意味は勧誘であり、「や」は間投助詞で、用法は感動・詠嘆、呼びかけのどちらでも成り立つということである。すなわち、「や」の用法が感動・詠嘆ならば「雪だなあ。降ろう、降ろう」となり、呼びかけならば「雪よ、降ろう、降ろう」となる。

 以上は、「こんこ」が「こん」の反復強調である「こんこん」の省略形と前提してのことである。では、反復強調を行う場合に、二度目の末尾を省略することが果たしてあるのだろうか。 それは次回で。

 




 

 

 

by Abend5522 | 2012-06-12 22:07 | クラシック以外の音楽
2012年 06月 10日

☆ 私の愛聴盤 ブラームス / 交響曲第3番

 
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 北西ドイツPOと同ソースではなかろうなと思いつつ、このリンデンベルク/ウィーン・フォルクスオパーO盤を入手したのだが、別ソースであった。CD化されているという情報は知らない。明るく、仄々とした演奏だが、リンデンベルクらしく明晰で、弛緩することはない。
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 つきあいの長いのは、エラートの廉価盤以来の北西ドイツPO盤だ。個性的なのは冒頭の2音目。mpからfにクレッシェンドさせている。このようにしている演奏は他に知らない。その後は淡々と進むのだが、アクセントのつけ方などには独特のものがある。リンデンベルクは『未完成』第1楽章のラストをアクセントに校訂した人物だから、彼の指揮する演奏には変わったものが多い。そして、それが彼のファンを一定数保っている。

 
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 ヘルビッヒ/ベルリンSO盤。この指揮者の特徴なのか、段々エキサイトしてくる演奏だ。ヘルビッヒは何度か来日しているのだが、日本での知名度は低い。チェコ出身で、アーベントロートやシェルヘンに師事した。地味なイメージで聴くと、意外性を持った指揮者である。

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 3番では、バルビローリ/ウィーンPOも挙げたい。いわゆる「バルビ節」は甘さ、温かさで語られることが多いが、この演奏を聴くと毅然さと寂寥感のコントラストが見事だ。有名な第3楽章にしても、取り立てて歌わせるということはしていないにもかかわらず流麗なのは、彼がイタリア&フランス系であることよりも、チェリスト出身だからだと思う。

 3番は、終楽章の複雑な書法が素晴らしい。コラール風の動機もそうだが、頻繁な転調によって調理される主題に分がある。そして、あれだけ高らかに奏された第1楽章の第一主題が力尽きるが如く再現される終わり方を、怒涛の終焉と聴くか、情熱の敗北と聴くかによって、この作品への思いは多様化されるだろう。

by Abend5522 | 2012-06-10 20:10 | クラシック音楽
2012年 06月 03日

☆ 私の愛聴盤 ブラームス / 交響曲第2番

 第1楽章の支配動機D-Cis-Dが、ベートーヴェンのSQ16番終楽章、リストの交響詩『レ・プレリュード』、そして2番より後のフランクの交響曲に共通する動機D-Cis-Fを意識して作られたのか、興味のあるところである。

 D-Cis-DとD-Cis-Fは、たった一音の違いが明-暗-明と明-暗-暗を分ける。前者は明へと復帰し、後者は暗が不安へと昂じる。ブラームスは、他の作品を聴いても思うのだが、調和せざる不安の中に美を看取するタイプではなかったのではと勝手に推察する。
 
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 2番の演奏として余りにも有名な、モントゥー/ロンドンSO盤である。ブラームスの面前で演奏し、生涯にわたってブラームスを敬愛したモントゥーだが、それが単なる経歴ではなく、表現されているところが凄い。どういう点に表現されているのか、それは徹底した丁寧さにおいてである。

 オケは対向配置である。2番はこうでないといけないと思う。第1楽章での1st.Vnと2nd.Vnの掛け合いと、その間に入る低弦の妙は、J.S.バッハの『マタイ受難曲』第1曲の構成を思わせる。この妙は、対向配置でないと表現し得ない。また、丁寧さを第一としなければ成し得ない。

 終楽章は、指揮者にとって見せ場であると同時に鬼門でもある。ここでのテンポやダイナミズムの設定次第で、全体のバランスが崩れてしまっている演奏を幾つも耳にした。2番は、溜めておいて爆発させる曲ではないと思う。

 若い頃は、2番をそんなに好きではなかった。緩く、腑抜けたような感じがしたものだった。しかし、状況が意識を決定するというか、この曲と感性が合うようになって来た現今の私である。

 

by Abend5522 | 2012-06-03 18:58 | クラシック音楽