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Abendの憂我な部屋

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2012年 03月 22日

今読んでいる本

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 幻冬舎新書から出ている中川右介の本も、何冊目かである。
 第九の誕生から始まり、この作品が様々な作曲家や指揮者によって、変容されつつ世界に拡散されて行く歴史が描かれていて、非常に読み応えがある。「クラシック・ジャーナル」編集長である中川の博識ぶりには驚くが、それをよく読み手に伝えるのは、良質なジャーナリストの筆致だろう。

 事柄の伝達にせよ、ロジックの開陳にせよ、書き方、言い方によって行為者の意志は様々な受け止められ方をする。それが最もよくわかるのが、政治と報道の世界だと思う。

 民主主義という統治形態において、権力は自らの意志を「民意」として表出する。宗権や王権において、教団や王の意志が「神の意志」として表出されたのと同じである。

 本書を読むと、第九もまたドイツ・ナショナリズム、社会主義、ヒューマニズムといった、相容れないものに共通して利用されて来た(そして、現代も利用され続けている)ことがわかる。その意味で、第九は「神」でもあり「民」でもあり、「縁起物」でもある。第4楽章をめぐる経緯などが、それを如実に伝えてくれる。

 大分読み進めた。今夜は、「学徒出陣と『第九』」の項からとなる。

by Abend5522 | 2012-03-22 22:22 |
2012年 03月 17日

◆ ブログ連動企画第14弾 ストコフスキーの『ルーマニア狂詩曲第1番』楽団録 ◆

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 ステレオ初期は、大手レコード会社が、自社レーベルの優位性を録音技術で争った時代であった。RCAヴィクターも、ハリウッドの映画用オケの腕利きメンバーが結成したグレンデールSOを、RCAヴィクターSOという録音専用オケとして、有名指揮者に数多くの録音をさせた。ストコフスキーがこのオケを単に指揮するだけではなく、そのステレオ録音技術にも大きく関与したことは、充分に推測できる。

 エネスコ(今はエネスクと表記するようだが)の『ルーマニア狂詩曲第1番』は、曲自体がステレオ録音に効果を発揮し、大衆受けのする親しみ易さを持っている。ストコフスキー盤の録音は1960年。エネスコが亡くなってから5年後である。

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 エネスコが、同じルーマニア人でまだ幼児だったディヌ・リパッティの頭を撫でている、有名な写真である。本か雑誌かは忘れたが、「エネスコはリパッティを可愛がった」という文句が添えられたこの写真を初めて見た時、これは女の子ではないのか?リパッティはヴァイオリンも習っていたのか?と不思議に思ったものだ。エネスコは、作曲家としてよりも、ヴァイオリニスト、音楽教育者として有名だったが、私が聴いたわずかな範囲でも、優れた曲を作っている。調べると、エネスコはルロイ・アンダーソンの和声法の師であり、ヴァイオリンの弟子筋に至っては、グリュミオー、メニューイン等々の錚々たる名があった。

 『ルーマニア狂詩曲第1番』は1901年の作品だが、前年の1900年に作られた弦楽八重奏曲は後期ロマン派的作品で、シェーンベルクの『浄夜』に似たパッセージも登場する。終楽章で民俗風のメロディーが少しだけあるが、正面には出て来ない。


 チェリビダッケがブカレストのジョルジェ・エネスコPOを振った「濃い」演奏である。ノリノリのチェリビダッケが9分あたりで叫び声を発している。優雅さから乱舞へと熱狂して行くリズムとスピード感溢れる演奏だ。


 こちらは、ストコフスキーがこの曲の特徴を自ら解説し、BBC響を使ってそれを示している映像である。彼は、ジプシー音楽の要素を使った祝祭的な作品として、この曲を捉えているようだ。チェリビダッケのような舞曲的アプローチではなく、いわば交響詩的なアプローチというべきだろうか。RCA盤を聴いてもシンフォニックな広がりに主軸が置かれていて、曲の進行は重い。木管をかなり強くオン・マイクにしているようで、冒頭の木管部分に少しハム・ノイズがあったり、中間部分でもレベルがオーバー気味になっている。

 チェリビダッケのような舞曲的アプローチは、聴く者をエキサイトさせる。ストコフスキーのシンフォニックな演奏には、こういう身体に訴える要素は無いが、当時の録音技術をフル活用した色彩豊かな音響を聴かせてくれる。これがストコフスキーの大きな特徴だと思うのだが、それ故に、我が国ではきちんとした評価をされて来なかったのだろう。

 sawyer様。では、お次は『悲愴』を宜しくお願いいたします。

by Abend5522 | 2012-03-17 20:10 | クラシック音楽
2012年 03月 16日

◆ ブログ連動企画第12弾 ストコフスキーの『王宮の花火の音楽』怪音録

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 感想を書くに際して、以下の盤の所々を聴いてみた。
  ① コレギウム・アウレム
  ② レッパード/イギリス室内O
  ③ マリナー/ASMF
  ④ ターフェルムジーク・バロックO
  ⑤ ラ・ストラヴァガンツァ・ケルン
  ⑥ コッホ/ベルリン放送SO

 愛聴盤はコレギウム・アウレムのものだが、他の5種類はそれぞれに違う。ヘンデルの自筆譜も含め、ペトルッチ楽譜ライブラリーから無料でダウンロードできるが、流石はバロック音楽で、殆ど緩急・強弱勝手次第というスコアの趣である。

 「ピリオド楽器を使った現代的な演奏」が主流の今、ストコフスキーの演奏は、ロマンティック、幅の大きいラレンタンド、コンティヌォ無しといった古めかしい演奏に聴こえるだろう。強烈なストコ節を聴かせた『ハンガリア狂詩曲第2番』の怪演と同じRCAヴィクターSO、しかも録音時期が1年も空いていないことを考えると、ストコフスキーの自在な老獪ぶりに感心させられる。

 序曲やブーレに小太鼓が活躍するのは、録音年代を考慮すれば、ストコ節の一端を示すものといえるだろうが、ラ・ストラヴァガンツァ・ケルンの演奏では「歓喜」で小太鼓を派手に使っているので、今聴いてもストコ節満開とはいえない。弦と木管が緩やかで美しい、モダン・オケでの演奏である。

 ストコフスキー盤が今も一定のマニアに人気があるのは、メヌエットⅡのラストで急に入り込む、極めて不自然な打ち上げ花火と歓声の効果音ゆえだと思う。「それは映り込んでしまった」の恐怖映像みたいなものだ。

 演奏において効果音を使うのは、チャイコフスキーの大序曲『1812年』の大砲や鐘、ヴェルディの『オテロ』第一幕での大砲、風音、雷鳴などは特に珍しくもなく、フルヴェンのバイロイト盤『第九』の「足音入り」や、かのケーゲル盤『幻想』の、やや低目の黄鐘調といった風情の鐘なども、効果音的といえるかも知れない。

 ストコフスキー盤には、効果音無しのCDもあるという。入手困難らしいが、聴いてみたい欲求に駆られる。なぜならば、何度聴いてもあの効果音は後付けされたものとしか思えないからである。そう思う理由は、次の点にある。
  1 音楽が聞き取りにくいほどの入力レベル。
  2 日本の夏祭りでの花火を思わせるような「た~まや~」的雰囲気。
  3 センターの奥から飛び出して来る、高音質で立体感溢れるロケット花火の音。

 1は、ストコフスキーがこのようなことを唐突に演出するような指揮者かという疑問をもたらす。
 2は、作品がオーストリア継承戦争終結の祝典曲であることと不釣合いな印象を持たせる。
 3は、RCAヴィクターの録音技術が優れていたとはいえ、1961年の時点で可能だったか。

 私の無知や勘違いかも知れないが、効果音無しのCDが存在する以上、音楽と効果音が多重録音されていたオリジナル盤から効果音を抜いたというよりも、後で高音質な効果音が付加されたのだと考えたい。無論、初出のレコードは聴いたことがないので、勝手な推量でしかないのだが。

 sawyer様。お次は、ラフマニノフの『ヴォカリーズ』で如何でしょうか。

 

 

 

by Abend5522 | 2012-03-16 00:45 | クラシック音楽
2012年 03月 13日

◆ ブログ連動企画第10弾 ストコフスキーの『大学祝典序曲』諧謔録 ◆

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  いざや我等の 若き命を  いざや我等の 若き命を
  ともに楽しまん ともに寿がん 喜びの春 とく過ぎ行くを

 高校で合唱部に入った時、初めて歌ったのが中世ドイツの学生歌『いざや我等の』、すなわち『大学祝典序曲』の最後に登場する『Gaudeamus igitur』の日本語版の歌詞である。今も憶えていて、私のパート(バス)も含めて歌える。

 『大学祝典序曲』でブラームスが使った4曲のうち、『Landesvater(国の父祖)』以外の3曲がYouTubeにあった。
 1  『Wir hatten gebauet ein stattliches Haus(我々は立派な学舎を建てた)』 

 2 『Was kommt dort von der Höh'(あの山の向こうから来るのは何だ)』
   ラジオ番組『大学受験講座』のオープニングには、『大学祝典序曲』でのこの部分が使われていた。

 3 そして、先にあげた『Gaudeamus igitur(さあ、楽しもう)』


 ドイツ民謡に通じていたブラームスらしい曲の作り方だが、狐狩りの歌である『Was kommt dort von der Höh'』をなぜ使ったのかが不思議で調べてみたら、新入生の歌として知られていたようなので、納得がいった。

 ブラームスに「祝典」は似合わない。バルビローリ/VPOの「きっちりとした」演奏も聴き直してみたが、やはり
すっきりと抜けの良い明るさはない。しかし、陰翳の濃いブラームスの作風によって学生歌が調理されると、そこにはブラック・ユーモアのような曲が出来上がるから面白い。ブレスラウ大学の名誉博士号授与への答礼として、ブラームスは元々曲を作る気はなかったというから、さもありなんと思われる。

 ストコフスキーは、弦の音を大きくうねらせたり、 『Was kommt dort von der Höh'』の箇所では木管のテンポを落とすなどのストコ節を聴かせてくれる。ニューフィルハーモニアOの明晰な音をうまく使い、早目のテンポで、フィナーレの『Gaudeamus igitur』を大いに盛り上げる。ブラームスの諧謔味を、抜けの良さでグイグイと引っ張って行く、聴いていて実に楽しい祝祭的な演奏である。ドイツの伝統的なオケではこうは行かないだろうし、アメリカのパワフルなオケでは軽薄になってしまうだろう。また、イギリスのオケでもロイヤルPOだったら、手堅いが地味な演奏になってしまうと思われる。ストコフスキーのオケ選びの上手さも感じられた演奏であった。

 sawyer様、お次はリストの『ハンガリア狂詩曲第2番』など如何でしょうか。

by Abend5522 | 2012-03-13 23:38 | クラシック音楽
2012年 03月 13日

歎異抄 第十三条

 前半部が、有名な部分である。現代語訳してみる。

 またある時、親鸞聖人から「唯円房は私のいうことを信じるか」との仰せがありましたので、「信じます」と申し上げましたところ、「それなら、私の言うことにも背くまいな」と重ねての仰せがありましたので、謹んでお受け申し上げましたところ、「たとえば、人を千人殺してみろ。そうすれば、おまえは必ず浄土に往生できるぞ」との仰せでしたから、「仰せではございますが、一人といえども私の器量では殺せるとも思えません」と申し上げましたところ、「それでは、なぜこの親鸞が言うことに絶対背かないなどというのか」との仰せでした。さらに親鸞聖人は、「このことによって知るべきだ。何事も心に任せてするのであれば、私が往生のために千人殺せと言えば、すぐに殺すこともあるだろう。しかし、おまえには一人でさえも殺せる業縁がないから、殺さないのだ。自分の心が善良だから殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことがあるのだ」と仰せられました。

 思想が宗教の形で表出された時代であるから、親鸞の言う「業縁」とは「状況」のことだ。置かれた状況が心のありようを決定し、行動へと繋がる。この時、心のどこかでしたくない、するまいと思っていても、してしまう。また、したい、しようと思っても、できない。これが、我々の日常の現実ではないか。「する」よりも「してしまう」、「しない」よりも「できない」ことが、生活の主調音になっている。「したいと思ったことは全部している」とか、「したくないと思ったことは絶対していない」という人がたまにいる。これは、「してしまった」ことを「したかった」ことと思い、「できなかった」ことを「したくなかった」ことにする、果に合わせて因を塗り替える顚倒した思考である。

 こういう思考は、「心」を拠り所にしていて、その心が状況によって形成されたものであることを知らない。状況には、社会的状況と時代的状況が一体化してあり、これが異なれば認識も違って来る。虹の色が何色に見えるかも異なり、鶏鳴の聞こえ方も違って来る。そして、音楽の聴こえ方もである。

 

 

  

by Abend5522 | 2012-03-13 00:49 | 佛教
2012年 03月 12日

◆ ブログ連動企画第8弾 ストコフスキーの『モルダウ』感源録 ◆

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 『我が祖国』のヴルタヴァが、モルダウというドイツ語で親しまれているのは、スメタナにとって悲しいことかも知れない。だが、人々がこの曲を好きなのは名ゆえではなく、ひとえに「川」への愛着と、メインのメロディーにあることを確認したい。





 イスラエル国歌『Hatikva(希望)』と、イタリア民謡『La Mantovana』。『モルダウ』のメイン・メロディーと似ていることがすぐわかる。日本人の心にも触れて来るメロディーだ。おそらく、東欧の古謡に淵源を持つものだろう。

 「川」に目を向けよう。『モルダウ』のストーリーと対応する我が国の名曲は、團 伊玖磨の合唱組曲『筑後川』である。丸山豊の作詞は、「いまうまれたばかりの川 山の光は 小鳥のうぶ毛の匂」で始まる「みなかみ」から、「筑後平野の百万の生活の幸を 祈りながら川は下る 有明の海へ 筑後川筑後川 その終曲 ああ」で終わる「河口」までを歌う。『モルダウ』は、その源から聖ヨハネの急流を経て、エルベ川へ合流するまでを描く。流れは違っても、川が持つ歴史の重みと人々の畏敬の念は同じである。

 ストコフスキー/RCAヴィクターSOの演奏は、場面の繋ぎ方が卓越している。「ゆくかはの流れはたへずして」の音画を見事に描いている。川の流れのメリハリがよく付けられていて、しかも絶えざる流れを確保するような演奏は、ストコフスキーが最も得意とするところではないだろうか。ヴルタヴァ川に対する民族的情念がどのようなものなのかはわからないが、東欧(ポーランド)系であるストコフスキーの、この曲への思いが並々ではないことが感じられる演奏である。

 sawyer様、お次はベートーヴェンの序曲『コリオラン』で如何でしょうか。

by Abend5522 | 2012-03-12 19:27 | クラシック音楽
2012年 03月 10日

♬ 楽器のジャケ ♪

 楽器をあしらったジャケは少ない。工夫次第でいいものが出来ると思うのだが。
 「これは味があっていい」と思った2枚を紹介しよう。
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 ハイドンの『軍隊』、『告別』、協奏交響曲を収めたシェルヘン盤。『告別』の終楽章に「演出」が施された、ウェストミンスター音源の国内盤である。
 
 実に面白いジャケだ。大太鼓とシンバルが『軍隊』を表し、奏者が消えて宙に浮いたマレット、片方は大太鼓の上に置かれ、片方は地に伏せられたシンバルが『告別』を表している。楽器に二重の意味を持たせた、掛詞ならぬ掛楽器の風情である。一見すると寂寥感があるが、センスに満ちたユーモアが感じられる。

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 こちらは、ベートーヴェンの七重奏曲、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタK.454を収めた、アンリ・メルケル&リンデンベルク盤で、オデオン音源のモノラル国内盤である。七重奏曲は、リンデンベルクが「指揮」をしている。指揮者がいる、オケ用編曲版ではない室内楽の演奏はこれしか知らない。

 花びらをバックにした、7つの楽器のモノクロ画像。これがカラーだったら、ここに紹介しようとは思わなかっただろう。おそらくは黄色い花びらをバックに、弦の茶、木管の黒と銀、ホルンの金など、下品な色合いにしかならない。モノクロだからこそ、それぞれの楽器が溶け合い、七重奏曲であることを主張する。淡いブルー地に黒のタイトルも、それ故に冴える。

 楽器の配置も秀逸だ。高域を担うヴァイオリンを、チェロ&クラリネットの中域とコントラバス&ファゴットの低域が左右から支え、更にヴィオラとホルンがこれらに合力する形で、作品の象徴である花びらの前で団円を成している。コントラバス&ファゴットの角度のつけ方も面白く、七重奏といっても、2つの楽器をペアとした三重奏とヴァイオリンとの四重奏ですよ、といったメッセージも見て取れる。

 センスに乏しいジャケが多い中、これからも目にとまったものを紹介して行きたいと思う。

 
 

by Abend5522 | 2012-03-10 23:59 | クラシック音楽
2012年 03月 10日

♬ 我が「原点盤」 ♪

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 クラシックの17cmLP盤。中古店でも見ることが少ない。そんな2枚こそ、私が初めて持ったクラシックのレコードである。1枚600円で、再生装置は、ポータブル電蓄だった。

 歌劇の序曲で一番好きなのは、今でも『ウイリアム・テル』と『魔弾の射手』。このカラヤン盤は、前者がフィルハーモニア、後者がBPOとのもので、ともに1960年の録音である。スピード感あふれる、颯爽としたカラヤンの演奏は気持ちがいい。1971年録音のものも持っているが、断然こちらの方が好きだ。

 私の『運命』は、セル/クリーヴランドOから始まった。なぜセル盤を選んだのかは憶えていない。2枚とも津田蓄音器で買ったのだが、『運命』の17cm盤はこれしかなかったのかも知れない。ジャケの裏に、ソニーからの次のような注意書きがある。

   このレコードは高度のカッティング技術によって超長時間収録をしてありますので、自動演奏器によって   は、一部再生しない場合がありますので御了承下さい。

 「自動演奏器」という表現に時代が感じられる。演奏時間は30分4秒で、17cmLPの収録時間は片面12、3分が限界だったことを考えると、これで『運命』全曲が聴けるというのは画期的なことだった。先のカラヤンのものでも、『ウイリアム・テル』序曲が11分49秒、『魔弾の射手』序曲が10分21秒なのだから。
 
 2枚とも既にCDを持っているので針を降ろすこともなくなったが、2枚とも緩衝袋に入れて大事にしまってある。
 

by Abend5522 | 2012-03-10 22:28 | クラシック音楽
2012年 03月 09日

◆ ブログ連動企画第6弾 ストコフスキーの『シェエラザード』心療録 ◆

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 大きな特徴は、楽章を区切らずに演奏している点である。ケンペ/ロイヤルPO盤(他には、これしか持っていない)も聴いてみたが、楽章で区切っている。

 楽章を区切っていないということは、彼がこの曲を、シェエラザードがシャフリヤール王にする「お話集」として見ていなかったことを示している。意味深長である。

 『千夜一夜物語』は、王妃の不貞によって女性憎悪に陥った患者(シャフリヤール王)と、優れた心理カウンセラー(シェエーラザード)とのカウンセリングの記録であり、近代以前にあっては、それが説話集という形態を取っただけである。故に、重要なのはカウンセリングによる患者とカウンセラーの変化の過程であって、楽章で区切るとこれを分断することになってしまう。シェエラザードが夜ごとに様々な話をしたとて、それが彼女と王の間でなされる治療の過程であることは一貫している。多彩な話の「集まり」に意識を奪われてしまうと、それらがカウンセリングの「流れ」で用いられた材料であることを見逃してしまうだろう。楽章を区切らないストコフスキーの演奏は、まさにこの「流れ」において曲を捉えたものである。

 『シェエラザード』の、5回目にして最後の録音というから、ストコフスキーはこの作品に特別な思いがあったのだろう。4回目までの録音で楽章を区切っているかどうかは知らない。ご教示を請う次第である。

 ケンペ盤は、起伏の大きい、ロマンの色濃い演奏を繰り広げている。同じロイヤルPOでも、ストコフスキー盤は静謐で緻密な演奏だ。ヴァイオリン・ソロにロンドンSOのコンマスたるグリューエンバーグを配したのも正解で、芯のしっかりした美音が、かなり鍛えたであろうロイヤルPOの精緻な音の中で光彩を放っている。一筋縄では行かないシャフリヤール王の症状に困惑しつつも、根気強くカウンセリングを行うシェエラザードの姿が想像される。

 「交響組曲」というヌエ的ジャンル名が冠せられることもなくなった『シェエラザード』。ストコフスキーは、この作品名どおりに、シャフリヤール王が憎悪する女性でありつつ、カウンセラーとして王の心を救う彼女の姿を見事に表現したといえる。シェエラザード。王の心を救ったのは、彼女の豊かな母性だったのかも知れない。

 sawyer様、私もプリンターのスキャナー機能でジャケを取り込んでみました。
 お次は、プロコフィエフの『ロメオとジュリエット』からの5曲など如何でしょうか。
  

by Abend5522 | 2012-03-09 23:38 | クラシック音楽
2012年 03月 07日

青春色の


  四条通をゆっくりと     君の思い出残したとこで
  黒いダッフルコート着て  背中丸めて歩いてます

 この歌詞で始まるのが、うめまつりの『北山杉』(1975)である。

 四条通は、祇園の石段下から松尾大社までの長い通りだが、「四条へ行く」といえば、四条河原町から四条烏丸までをいうのが普通である。私は、小さい頃から地下を歩いてこの間を行くのが好きだった。今では、階段を昇降するのが面倒で、歌詞のように「ゆっくりと」は歩けなくなった地上を早足で行く。

 「黒いダッフルコート」は私も持っていたが、着たことはあまりなかった。トレンチコートかピーコートをよく着たものだ。ジャケットもブリティッシュのものが好きで、つまりは襟幅の広いものが好きだった。シャーロック・ホームズでお馴染みのディアストーカーハットなども持っていたが、ノーフォークジャケットは買えなかった。これは、今も欲しいジャケットだ。

 「君の思い出」については・・・・・・心にしまって置こう。

  青春色の     京都の町を
  静かに静かに  歩いていました

 清水の長い石段、北山杉、大覚の白い石仏といったものが、彼女との思い出の象徴として表され、この歌詞で締め括られる。「静かに静かに」歩ける京都の町は、今、何処にあるのだろう。だが、「青春色」は、人それぞれに異なりつつも、無くなることはない。生が死に移行したり、薪が燃えて灰に成ることはなく、生は生、死は死、薪は薪、灰は灰としての位を持っており、「前後分断」していると、道元は『正法眼蔵』で述べている。ならば、青春色は中年色に、中年色は老年色に移行することはなく、三つの色は、各々の位を有して我一人に統べられているのであろう。

 そんなことを思った。 

by Abend5522 | 2012-03-07 22:09 | 京都