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Abendの憂我な部屋

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2012年 12月 10日

Verklärte Nacht


 今は入手困難な、ジョルジュ・セバスティアン/LGOによる1963年の録音。コンヴィチュニーが亡くなった翌年の、素晴らしいLGOの弦楽合奏が聴ける。アップなさった方に感謝。

 四条の海南堂でデーメルの詩をレクラム文庫で買ったのも、往にし学生時代のこと。『浄夜』あるいは『浄められた夜』という訳よりは、いささか佛教的に『無量光夜』の方がいいと思っていた。

 詩の男が、他の男の子を身籠った恋人を母子ともども「その後も」許せるとは思えなかった。しかし、一方では三千代を親友の平岡に譲り、やがてその妻となった彼女を略奪する『それから』の代助のありようが現実的とも考えられなかった。詩の男のような者もいれば、代助のような人間もいるという多様性のみが現実だと、今でも思っている。

 「わがこころのよくてころさぬにはあ らず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべ し。」

 『歎異抄』に語られたこの親鸞の言葉は、常に重い。神の如く女を許した詩の男と、三千代を平岡から略奪した代助は、各々が善人、悪人であるからそうしたのではないということだ。先験的な善悪という対立的二元論はここに無化され、善因善果、悪因悪果という単純な因果律は葬り去られる。業縁(行為を決定づける間接原因)が人をして果を招来せしめ、因は果に整合性を持たせるために作り出された観念に過ぎない。花について語るために、水や日光という縁を無視して土を云々するようなものだ。

 特定の宗教的、政治的意志を貫徹するために措定された善悪二元論から、縁を飛ばして果を説明するという思考様式は、果を特定意志に合わせて解釈し、以てかかる意志の正当性を喧伝しようとする倒錯である。宗教や思想だけではなく、音楽においてもこういう倒錯した思惟が散見できる。

 SPやヘッドホンからは、音は鳴っても音楽は流れない。プレーヤー→アンプ→SP、ヘッドホンは、因→縁→果を形成しない。三者は一体となって因である。感性→感動、不感動もまた、一体となって果である。では、縁となるものは何かといえば、SPで聴く者には音響空間であり、ヘッドホンで聴く者には、SPと耳の間にある僅かな空間である。

 「私のオーディオ」と称する画像をよく見るが、機材よりも部屋に目が行く。この見方は誤っていないだろう。

by Abend5522 | 2012-12-10 00:46 | クラシック音楽


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