Abendの憂我な部屋

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2012年 09月 23日

ヴィルトゥオーゾと大和魂


 余りにも有名な『ラ・カンパネッラ』。
 パガニーニが作曲したものをリストが編曲し、それを更にブゾーニが編曲したものをオグドンが弾いている。
 まさにヴィルトゥオーゾの魂が、百数十年間にわたり、この4人に相続されているというべきだろう。

 ヴィルトゥオーゾはラテン語で「美徳」を意味するVirtusに由来する語で、転じて優れた技術を有する芸術家を表すものとなった。

 「技術だけで精神性に欠ける」。クラシックを聴き始めて以来、この陳腐な文句を何度見聞きしたことだろう。音楽だけではない。日本を無残な敗戦に追い込んだのも、こういう観念で染められてしまった「大和魂」によるものなのだ。

 「才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。」

 『源氏物語』第二十一帖「少女(乙女)」の一節。光源氏が、息子である夕霧の元服に際して、「才」(ざえ。学問のこと)の重要性を説くシーンであり、これが「大和魂」という語の初出とされている。そして、「政治における実務能力」というのが、その意味だ。音楽でいえば楽曲を処理する能力であり、それに優れた者がヴィルトゥオーゾということになる。

 「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」

 本居宣長の有名な歌。鎖国下の江戸期に起こった国学の底流を成すナショナリズムは、大和魂=大和心の意味を大きく変えてしまった。宣長は『源氏物語』を研究し、紫式部のキーワードである「あはれ」の意味も正確に理解していたが、それを国学のナショナリズムに「応用」してしまった。敷島(日本)を外国との対立関係で捉え、日本古来の純粋な物事の見方として「あはれ」を据えてしまったのである。これを知れば、紫式部はビックリし、彼女と同時代の清少納言は「私のキーワード『をかし』はどうなのよ!」と怒ったことだろう。

 宣長は、「敷島の大和心」が、後世に「肉弾粉と砕くとも 撃ちてしやまん 大和魂」(『空の神兵』)の果てに無残な敗戦を招来し、今に至るも「技術だけで精神性に欠ける」という陳腐な観念をのさばらせようとは、思いもしなかっただろう。「朝日」も「山桜花」も、自然の為す「技」ではないのか。
 

by Abend5522 | 2012-09-23 22:47 | クラシック音楽


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