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Abendの憂我な部屋

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2012年 03月 13日

歎異抄 第十三条

 前半部が、有名な部分である。現代語訳してみる。

 またある時、親鸞聖人から「唯円房は私のいうことを信じるか」との仰せがありましたので、「信じます」と申し上げましたところ、「それなら、私の言うことにも背くまいな」と重ねての仰せがありましたので、謹んでお受け申し上げましたところ、「たとえば、人を千人殺してみろ。そうすれば、おまえは必ず浄土に往生できるぞ」との仰せでしたから、「仰せではございますが、一人といえども私の器量では殺せるとも思えません」と申し上げましたところ、「それでは、なぜこの親鸞が言うことに絶対背かないなどというのか」との仰せでした。さらに親鸞聖人は、「このことによって知るべきだ。何事も心に任せてするのであれば、私が往生のために千人殺せと言えば、すぐに殺すこともあるだろう。しかし、おまえには一人でさえも殺せる業縁がないから、殺さないのだ。自分の心が善良だから殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことがあるのだ」と仰せられました。

 思想が宗教の形で表出された時代であるから、親鸞の言う「業縁」とは「状況」のことだ。置かれた状況が心のありようを決定し、行動へと繋がる。この時、心のどこかでしたくない、するまいと思っていても、してしまう。また、したい、しようと思っても、できない。これが、我々の日常の現実ではないか。「する」よりも「してしまう」、「しない」よりも「できない」ことが、生活の主調音になっている。「したいと思ったことは全部している」とか、「したくないと思ったことは絶対していない」という人がたまにいる。これは、「してしまった」ことを「したかった」ことと思い、「できなかった」ことを「したくなかった」ことにする、果に合わせて因を塗り替える顚倒した思考である。

 こういう思考は、「心」を拠り所にしていて、その心が状況によって形成されたものであることを知らない。状況には、社会的状況と時代的状況が一体化してあり、これが異なれば認識も違って来る。虹の色が何色に見えるかも異なり、鶏鳴の聞こえ方も違って来る。そして、音楽の聴こえ方もである。

 

 

  

by Abend5522 | 2012-03-13 00:49 | 佛教


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