2012年 12月 24日
一休宗純禅師と蓮如上人は親友でした。禅僧と念佛僧が親友同士は面白いことですが、二人はそれぞれ厳しい人生を送りました。 一休さんは、若い時に師事していた師匠が亡くなってしまい、絶望のあまり琵琶湖で入水自殺未遂を起こしていますが、闇夜に鳴く烏の声で大悟したといいます。以降、堕落していた当時の禅に喝を入れつつ、風狂の道を歩むことになります。晩年は盲目の娘の森女を伴い、漢詩集『狂雲集』には、男女の性愛についてのかなり際どい作品も多くあります。87歳の長命でありましたが、臨終の言葉は「死にとうない」であったと伝えられています。 蓮如さんは、親鸞八代の直系子孫ですが、当時の本願寺は同じ浄土真宗の他派よりも小さな寺に過ぎませんでした。しかし、彼には天性ともいえる政治力、オルガナイザーの資質があり、一代にして本願寺を最大級の宗教権力にまで高めます。また、現代の本願寺の基礎となる布教や勤行の方式を確立し、宗祖親鸞の著作を開版する一方で、『歎異抄』を門外不出にしました。また、蓮如さんは御文章(おふみ)によって全国の信徒への疑問に答え、布教を推進するという、今でいえばメールやツィッターによる発信のような手法を取りました。彼も、84歳の長寿を全うしました。 これは、親鸞聖人晩年の絵像です。これに対してかどうかはわかりませんが、一休さんは次のような歌を詠みました。 襟巻のあたたかそうな黒坊主 こやつが法は天下一なり 親鸞さんの法(教え)は佛教思想を大転換させたものでしたが、一休さんはそれを理解していたのかどうかはわかりません。しかし、一休さんと蓮如さんが、宗派の垣根などお構いなく親交を暖めたのには、思想的にも相通ずるものがあったからでしょう。両者には、面白いエピソードがあります。 或る富裕家が一流の絵師に馬の屏風絵を描かせ、それへの賛を二人に依頼しました。富裕家は、二人の高僧がさぞや立派な賛を書いてくれると期待したのですが、まず一休さんが書いたのが「馬じゃげな」で、続いて蓮如さんが書いたのが「そうじゃげな」でした。二人とも京都人ですから、今でいえば「馬みたいやな」、「そうみたいやな」ということになります。こう書かれた時の富裕家はどんな顔をしたのか、想像するだけで笑えます。 また或る時、一休さんが蓮如さんを訪ねて来ました。しかし、蓮如さんは留守だったので、一休さんは帰りを待っている間に眠くなり、そばにあった阿彌陀さんの像を枕代わりにして寝てしまいました。やがて帰って来た蓮如さん、怒るどころか「おいおい、わしの米櫃をひっくり返してもらっては困るぞ」と一休さんにいったということです。 伝教大師最澄と弘法大師空海は、初めは親交が篤かったものの訣別してしまいましたが、一休さんと蓮如さんは生涯にわたって親友どうしだったようです。
by Abend5522
| 2012-12-24 01:18
| 佛教
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